えび茶ゾーン

2015年10月19日

第951回

 

 「良心を手腕に運用しすぎると言うことはない」。新島襄の「同志社大学設立の旨意」の一節を原型とするこの言葉は、ある法学者が責任ある地位に就いた後輩の困難に際し贈ったものである。

 

 良心を説明するのは難しい。筆者の友人は「良心とはどういうものなのかが分からない」と言っていた。もっとも当の本人は、学問を通じて過去の不正義に正面から向き合い、しかもその不正義から裁判所に「人生被害」と呼ばれるほどの不利益を被った人々と「隣人」としか言いようのない関係にある。そうした思いと行動の一致は、心のうちの良心の存在を認識させないのかもしれない。良心は痛んだり咎めたりして初めて、「ある」と分かるからである。わが友の中では良心が確かに働いている、と思う。

 

 良心の運用は理想主義の奇麗事ではなく現実主義に基づいている。ブレヒトがアンティゴネに語らせるように、「権力を追い求める者は、渇(かつ)えて塩水を飲むのと同じ、やめられない」(光文社古典新訳文庫版)。権力の塩水は「ますます飲みつづけずにはいられな」くなるからこそ、良心の痛みに敏感でなければならないのではないか。

 

 良心の声を聴くことは、自分と率直に向き合うことでもある。それは力を持ち人の行く末を左右できる立場にある者ほど、求められる姿勢だろう。早稲田とは浅からぬ縁のある、同志社に関わって発せられた冒頭の言葉は、今まさに知的修練の途上にあり、「手腕」を身に付けつつある学生各位にも届けたく思う。そして現実社会や政治における良心の運用にも目が向けられることを願う。(ME)